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スタッフ紹介

当院には「有資格者」しかおりません。
国家資格を持ったスタッフが施術を行います。

当院スタッフは、研修期間(通常3カ月)、土日の治療終了後や休憩時間を返上して、技術練習、クライアント様への接し方・伝え方さまざまな研修を越えて、やっとクライアント様の身体に触れることができます。

院長 馬場 厚尚(ばば あつひさ)

福岡東鍼灸整骨院 院長
1974年9月22日、福岡市博多区諸岡に生まれました。

幼少期は、大変身体が弱く、特に生後4ヵ月で気管支喘息を発症し、6ヶ月通院し、母親を大変心配させました。その上、通院中にひどい結膜炎にかかり、父、母、兄と次々に感染させ、かなり迷惑をかけました。

3歳頃から、久留米市に移り住み、小学生になると、スイミングスクールに通い始め、それをきっかけにして、喘息も落ち着いたようでした。

さらに、中学生になると、友人から誘われて、バレーボール部に入部し、練習がかなりハードで、よく走らせてもらい(笑)、おかげさまで病弱だった身体も丈夫になりました。 しかし、ある日バレーボールの試合中に、足首をひどく捻挫してしまい、病院に行きましたが、シップを渡されただけだったので、地元の整骨院へ行くと、とても親身になって処置をしてくれました。

そんなこともあり、整骨院の免許を取るために、当時は九州には免許を取るための専門学校がありませんでしたので、遠く離れて、仙台の専門学校に通うこととなりました。

専門学校では、夜間部に通い、日中は整骨院で見習いをし、夜は学校に通う生活をしていました。当時、一番びっくりしたのは、学校に到着した頃降りはじめた雪が、下校する頃には、膝丈まで雪が積もっていたことです。九州育ちの自分には、とてもインパクトのある大変な夜でした(^_^;)

学校を卒業してから、まず柳川市の整骨院で仕事をはじめました。

若さというパワーと勢いだけでしたが、仕事をしていくうちに、「もっと役に立てるようになりたい」と日々思うようになり、上京することを決意しました。 上京して、まず品川のオフィス街で、薬日本堂という漢方薬を扱う会社の整骨院で勤務しました。

ここで、大きな出会いをもらいました。

現在、青森県で医師として働いている先輩や、大阪市で漢方医(薬剤師)となった仲間たちと出会い、お互いに刺激し合い、充実した日々を過ごしました。

その後、浦和の方に異動となり、こちらの整骨院では、浦和のサッカーチームの選手が来院されるような所で、数多くの経験をさせていただき、学ばせてもらいました。 いろんな繋がりがあったおかげで、その後も広島や徳島などでも縁あって学ばせていただきました。

2008年10月、今の福岡市東区で、「福岡東鍼灸整骨院」を開院しました。
はじめの頃は、奥さんと2人で仕事をしておりましたが、じわじわと徐々に一緒に働く仲間が増えていき、おかげさまで多くのクライアント様にもご支持をいただけるようになりました。

開業して一番大変だったことは、 交通事故にあったことです。開院して2年目にまだまだ暇だった頃(笑)、 昼休みを利用してポスティング(広告配り)をしていました。 その帰りに、“事故の多い場所だから気をつけよう”といつも思っている交差点に入った瞬間、
ノンストップの車が突っ込んできて、まさかの“交通事故”にあったことです。
愛車は大破しそれっきり、自分は結果的には大丈夫だったのですが、 胸をぶつけ、救急車に乗り、大変な目に遭いました。

しばらくは、首の痛みやめまい症状に悩まされましたが、 そのこともあり、「交通事故に遭ってしまった方」に対する想いが強くなり、 “事故後の後遺症に悩んである方”や“事故後のフォロー(心のケアから弁護士への相談窓口など)”にも力を入れています

私が目指すところは、自分の職業を通して自らが架け橋となり、自分たちだけでは成しえないことを、それぞれの専門家とつながりを持つことで、一つの地域ネットワークを作り、本当の意味で“地域医療に根ざす”ことです。 現在、整形外科医、内科医、漢方医(薬剤師)、弁護士、行政書士、司法書士などと連携し、クライアント様に安心して施術に専念していただけるようにしています。

今も、よく勉強会や研修のため、整骨院にいないことでご迷惑をおかけすることもありますが、よりよい施術を、空間を提供できるように日々精進の毎日です。

昨年まで、保険診療と鍼灸施術の併用、交通事故の施術(自賠責保険)を中心として施術させていただいていましたが、今まで「痛みや症状に対しての施術」が主でしたが、今年は新たに併設した院で、既存のクライアント様からもご要望の多かった、「クライアント様がずっと笑顔で健康でいてくれること」を目的として、予約制で「全体を診る施術」にも力を入れていくことになりました。

現在、待ち時間が長く、お忙しい年代の方の多い整骨院ですので、申し訳なく思っていたことと、当院の考え方自体が「症状や痛みの出ない身体になろう」というコンセプトですので、こういう経緯があり、①予約制で ②快適な空間で ③短時間でより効果的にを実現するべく、併設いたしました。

今までの身体との違いをぜひ堪能して下さい。

副院長 馬場 鮎美(ばば あゆみ)

福岡東鍼灸整骨院 副院長
12月12日生まれ。A型。出身地:福岡市東区箱崎生まれ。

幼少期は、わんぱくで生意気で、いじめられっこ(笑)。

小学生に上がる前に、いじめをきっかけにして、「強くなりたい」と切に願い、 “空手”を習い始めました。 ただし、はじめたのは良かったのですが、入ったところが熱心な道場で、 週5回の練習と、長期休みごとの合宿と試合の日々をすごくこととなりました。 練習量の多さと持ち前の負けん気の強さで、小学校6年で全国優勝することとなりました。

しかし、中学生になる頃、ここで問題が生じます。 あまりにも小さい頃から身体を鍛えすぎたため、身長150cmでストップし、 「身長は伸びない、筋肉が硬く怪我しやすい身体」を手に入れてしまいました。 この頃から体格差もあり、試合のたびに脳しんとうや指の骨折、試合後には腰が痛くて眠れず、病院に行くと「空手やめれば?」ですまされる日々をすごしました。

高校生になって、ある日、ついに試合前日、足が上がらなくなってしまいました。 ここで、先輩に紹介してもらった「鍼灸整骨院」に行くことになりました(のちの師匠)。 処置をしてもらい、何とか試合に出られるようにしてもらい、 この時初めて、「施術してくれた!!」と強く感動したことを覚えています。

大学生では、空手から突然、華やかさに憧れてダンスの世界に入ることとなりました。 ただ、一生懸命やっても、空手時代のケガから抜け出せず、思うように練習できずにいました。 しかし、ケガのため力技で動けないので、「無駄な力を抜く」ことを覚え、 痛みが出ない動きを追求し、「身体の正しい使い方」を知りました。 こういうことをきっかけにして、 「ケガする前に、こういうことを知っていて、教えてくれる人がいれば、 こんなに苦しまずにすんだのに」という想いから、施術の世界に入ることを決断しました。

この後、専門学校に入学することになるのですが、朝学校に行き、昼すぎて仕事場へ向かい、夜帰宅という移動を、父親と先輩と友人にゆずってもらった原付バイクを3年間で3台乗りつぶし、通学と通勤に1日2時間バイクという生活を続け、試験があろうと、卒業のかかった模試があろうと、師匠は容赦してくれる人ではなかったので(笑)、仕事をフルにしながら、必死に一つも落とすことなく、無事卒業しました。

鍼灸師の免許をとった後、しばらく師匠の下で、学生の頃からトータルで8年間働き、 副院長までになりました。

自分たちの整骨院を持ち、
本当に人の役に立てるような施術家になり、
後輩たちを育てて一人前にして、
一人一人が社会貢献できることが夢であり、
一緒に働く仲間を得て、任せられる仕事が増えていくこと自体をうれしく思っています。

三寺 大樹(みつでら たいき)

福岡東鍼灸整骨院 スタッフ
こんにちは、三寺大樹です。
三に寺と書いて三寺(みつでら)と読みます。

1988年5月8日に北海道で生まれました。
農家の長男として幼い頃から自然と触れ合い、体を動かすことが好きな子でした。
小学生の頃は陸上とスケート、中学生の頃はサッカー、
高校生の頃は陸上と走ることがとても好きで、
特に高校の頃は練習がとても厳しく、精神面までとことん鍛えられました(笑)

高校卒業後は農業の専門学校に進学しました。
実家の農家を継いで、立派な農家になるという目標があったためです。
二年間という短い間でしたが、楽しい思い出ばかりで、
卒業しても毎年同窓会や結婚式に出るほど、今でも当時のクラスメイトと仲良しです。
農業の専門学校卒業後は、実家で父や母と一緒に酪農を営んでいました。
父とは考えが合わなかったりすることも多かったですが、
家族みんなで協力して酪農経営をしていました。

しかし、2012年4月。 それまで大きな病気一つかかってなかった父が突然倒れ入院。父が仕事していた部分をカバーすることができず、 日に日に苦労することが増え、 同時に父の凄さを思い知りました。

母と二人で、父の看病と必死で早朝から夜遅くまで酪農を勤しんでいましたが、
現実は厳しく、その年の9月にあっという間に父は他界し、
同年12月には、長く続けていた酪農を辞めなければいけませんでした。
この一年間は、今まで自分が生きてきて一番つらい一年間でした。

それまで、私は農業のことしか学んでいなかったので、
これから先どうするか悩んでいた時に、
姉が柔道整復師(整骨院の免許)だったこともあり、鍼灸師の存在を知りました。
それまでサッカーをしていた時のケガで整骨院に通ったことはありましたが、
鍼灸師という職業を知らなかったのですが、
姉からの奨めと、「手に職をつけて人の役に立てる仕事がしたい」
という想いから鍼灸師を目指すこととなりました。

仕事を辞めてから四ヶ月後に北海道のメディカルスポーツ専門学校へ入学し、
鍼灸師になるため三年間学習してきました。
この三年間は、周りが全員自分より年下だったり、
医学用語や東洋医学用語など、今まで聞いたことのない言葉が多かったり、
自分より若い子たちの体力についていけなくて悔しい思いをしたりなど、
うまくいかないことも多かったですが、
無事国家試験を合格することができました。
自分は勉強があまり得意ではありませんでしたが、
最後まで諦めずに努力を重ねてきたからこそ合格することができたと思っています。

進路についてですが、
北海道を出てより多くの経験をしたかったことと、
母の出身地である福岡県で仕事をしてみたかったこともあり、
福岡東鍼灸整骨院に就職することになりました。

生まれて初めての梅雨は本当に苦しかったのですが
(北海道は梅雨がありませんので、蒸し暑さを経験したのも初めてでした)、
周りの人の温かさもあり、毎日を楽しく過ごしています。

これからも日々学習、成長し、
そして患者さんに笑顔になっていただけるように、
日々日々精進あるのみです。

藤山 比奈子(ふじやま ひなこ)

福岡東鍼灸整骨院 スタッフ
1996年12月9日生まれ。福岡県のお隣りの佐賀県出身です。3人兄弟の末っ子、しかも8つ、7つ年の離れた兄たちに勝ちたくて、頑固、わがまま、負けず嫌いで育ちました。

小学校のとき、仲の良かった友人の誘いもあり、バレーボールに出会いました。はじめはなんとなく「友だちと一緒ならおもしろそうだな」というくらいの気持ちで始めたバレーボールでしたが、続けていくうちにボールを落としたら負け、逆に言えば相手がボールを落とすまで拾い、粘り続ければ勝てるというおもしろさに惹かれ、バレーボールをはじめて12年になりました。

12年間大きなケガというケガはしなかったものの、足首の捻挫や腰痛、シンスプリント(すねの骨膜炎)とはずっと付き合い続けていて、整骨院に通っていました。

高校3年生になり、進路を考えはじめた時、私も“整骨院の先生のようにケガで苦しんでいる人たちを助けたい”という気持ちが芽生えました。
鍼灸施術というのは正直、鍼灸(はりきゅう)師を目指すまで受けたことなかったのですが、通っていた整骨院の先生にも相談した結果、ケガだけでなくより多くの疾患に対応でき、自分の「苦しんでいる人たちを助けたい」という気持ちを叶えることのできる鍼灸施術というものに興味をもち、専門学校への入学を決めました。

鍼灸(はりきゅう)の専門学校1年生の時は、とにかく高校まで習ってきたこととのギャップに頭がパンクしそうでした。
経穴(ツボの名称)は、“読めない、書けない、見たことない”漢字ばっかりだし、特に東洋医学は今まで触れる機会がなかったので、「なに言ってるんだろう、この先生??」状態でした(笑)。
しかし、東洋医学というのは、やればやるほどおもしろさがあり、バレーボールに惹かれた時のような感覚で惹かれていき、今では一番好きになりました。

これからもっともっとたくさんのことを勉強して、身体的な疾患で苦しんでいる方だけでなく、メンタル的にも苦しんでいる方たちの手助けになれたらなと思います。私が施術させて頂く上での1番の目標は、「クライアント様の身体だけでなく、心から元気にする」ことです。そのためには、治すための知識だけでなく、心を癒すためにも、心を開いていただくためのコミュニケーション能力もこれから磨いていこうと思います。

日々努力、謙虚さ、感謝を忘れずに精進していきますので、これからどうぞよろしくお願いいたします。

闕山 渉(かげやま わたる)

福岡東鍼灸整骨院 スタッフ
初めまして。闕山渉(かげやまわたる)と申します。苗字の闕が珍しいので、よく“セキヤマ”さんとか“ケツヤマ”さんとか呼ばれることが多いので、まずは珍しい苗字の人という認識から覚えて頂ければと思います(笑)。ちなみに豆知識として闕山(かげやま)の闕は、スマホやパソコンでは“けつ”と入力すると変換できます(笑)。

趣味はアニメを観たり、音楽を聴くことで、最近ロードバイクにも乗るようになりました。
鍼灸師を目指そうと思ったきっかけは、自分がアトピー体質で、同じ悩みを持っている方の役に立ちたいを思ったことです。

1997年の3月3日のお雛様の日に福岡県福岡市南区の長丘町3人兄弟の次男(末っ子)として生まれました。しかし父の仕事の関係で、福岡で育ったのは3,4歳くらいまでで、小中高は長崎県の佐世保市で過ごし、平成27年に前述の理由で鍼灸師になりたいと思い、佐世保にある専門学校に入学しました。
小学生の頃は、背が学年でも下から1,2を争うくらい小柄で弄ばれていました。小学5年生になると、家庭科の授業が始まったのを機に、料理するのが好きになり、今ではスパイスから作るカレーをよく作っています。

地元の中学、高校に通っている頃はいじめを経験し、地元の高校から熊本県にある通信制の高校に2年生の時に編入しました。その通信制の高校の2年生で担任をしてくださった先生が体育の先生で、進路相談の際に、「整体の先生をめざしてみないか?」と言われ、3年生の時に、長崎市内にある鍼灸の専門学校のオープンキャンパス(私の母校です)に参加をし、佐世保市内にも同系列の学校があることと、「せっかくなら国家資格の鍼灸師を取得した方がいいですよ。」と説明を聴き、そこで初めて鍼灸に興味を持ちました。

人のために何か役に立っていきたいとワクワクした気持ちで入学したものの、筋肉の名前やその位置やその役割など、覚えなくてはいけない知識が多く、鍼灸施術をする上で大切な存在となる経穴(ツボ)は、身体のあちこちにあり、覚えるのも一苦労しました。

専門学校の2年生の時には、上海の大学に研修に行って、本物の人体標本をみせてもらったりしました。3年時になると、毎月のように模擬試験(学校の卒業試験と翌年2月の国家試験に向けて)や認定実技試験などを乗り越え、ようやく国家試験を受験しました。
はじめは過去の試験傾向と内容が異なり、「落ちたかもしれない・・・」と落ち込んでいましたが、自己採点ではなんとか合格ラインを越えていたので、応援してくれた家族、友達や先生方、共に努力してきたクラスメイトに感謝しています。そして、福岡東鍼灸整骨院に面接に行き、内定をいただけた時は嬉しかったです!!

3月末に正式な合格発表の日は、今までにない不安やドキドキした気持ちがこみ上げてきましたが、無事受験番号があり、鍼灸師になることができました。
ですが、私たち施術者は、免許を取得してからが本当の臨床としての勉強、努力の日々だと思っておりますので、福岡東鍼灸整骨院の一員として頑張っていきますので、よろしくお願いいたします!

風早 文葉 (かざはや ふみよ)

福岡東鍼灸整骨院 スタッフ
私は熊本に生まれ、転勤族だったため福岡・東京・京都と移り幼少期を過ごしました。
いつも家族で行動を共にして色んな所に行き、目で見て感じる環境にいれたことはとても恵まれていたと思います。
私も成長する中でどうしても家族での移動が難しくなり学業もあるということで福岡に戻ってきました。

私にとって鍼灸との出会いは身内に鍼灸院を開業している叔父がいたことです。
病名のつかない不調を感じたとき母は、鍼灸院に連れて行ってくれました。
私たち姉妹は「叔父ちゃんの魔法の手すごい!」とよく話したものです。

二十歳を過ぎたころ祖母を連れて鍼灸院を訪ねた際、お灸の香りに心落ち着く懐かしい不思議な感情が湧いてきました。
当時、一般企業で働いていたのですが、自分の目指すものが見つかったような気持ちになりました。
家族も賛成してくれて後押しをしてくれました。

3年間の鍼灸専門学校の生活は、思っていた以上に自分の未熟さを知り、押し潰されるくらいの苦しさでした。
しかしそれまで出会ったことのない人生経験をもった様々な年齢の人たちとの関わりの中で助けられてばかりで卒業を迎えました。

卒業後は、女性疾患の診療を主にした鍼灸院で診療していました。
同時期に月曜のみ福岡東鍼灸整骨院で診療の勉強をしつつ働いていました。

その後、結婚・出産により離れていた鍼灸ですが、院長・副院長とのご縁で午前中のみではありますが、復帰することができました。
これから私自身が患者に寄り添い、心を和らげ、身体が本来持つ治癒力を高めるお手伝いできるよう努力していきたいと思っていますのでよろしくお願いします。